春名なおあき

はるな 直章

戦争への道 絶対に許さない

日本共産党 元衆議院議員

プロフィール / 私の歩み(衆議院議員初当選まで)


衆議院議員初当選まで

過疎の山村で生まれる

過疎の山村で生まれる1959年4月16日、岡山県勝田町(2005年4月から美作市)鳥取県境の山村で、父・三雄(かずお・故人)、母・幸(みゆき)の三男として生まれました。

生まれて間もなく、全身にできものができる大病に、母が病院をかけずりまわり、お宮で祈願、やがて完治。それ以来大病を患ったことはありません。

民青同盟高校班で活動

民青同盟高校班で活動岡山県立林野高校に入学し下宿生活。入学前に起こった兵庫での「八鹿高校事件」。1年生のときに美作地区高校生部落問題研究集会に参加、「差別をなくしたい」と日本民主青年同盟に加盟。生徒会活動や文化部交流会など高校生活をおう歌、バスケ部でもがんばりました。

3年生になると受験一色。裕福でなかったので国立大学に入れなかったら…。と猛勉強して、高知大学教育学部に合格。

高知大学で学費値上げ反対の運動

高知大学で学費値上げ反対の運動高知大学教育学部小学校過程に1978年に入学し、三畳一間に下宿。その年の7月に「親の世代が苦しんだ侵略戦争に、その時代から体をはって反対した政党があった。この党なら」と日本共産党に入党。

大学時代の最大の思い出は、学費値上げ反対を掲げた2年連続のストライキを成功させたこと。学生運動に明け暮れましたが、苦手なピアノ、水泳もなんとかクリア、教員免許を取得しました。

民青同盟の専従に

民青同盟の専従に大学卒業間近に「教師は他の人に任せられるが、国民全体の教師は誰かれにはできないよ」と説得され民青同盟の専従に。核兵器廃絶の「広島・長崎アピール署名」、トマホークくるな―「反核アトム運動」、岩国基地包囲集会、「一人ぼっちの青年労働者をなくそう」と、運動会や「平和友好祭」、「高校生春・夏の講座」などに取り組みました。

このなかで真剣に民青同盟の活動に打ち込む憲子(妻)の姿に憧れて26歳の時に結婚。

東京で必死の生活と活動

東京で必死の生活と活動29歳の時、民青同盟の本部に。妻の協力のもと幼い2人の子どもと4人で上京。妻は港区の保育園に勤務。子どもの保育園への送り迎えや家事はできるだけ分担しました。得意料理はカレー、焼きそば。

中央常任委員、副委員長を5年務め、34歳で民青同盟を卒業。同時に「山原さんを当選させるために、高知に帰って四国の比例候補で」との要請で5人になっていた家族と高知に戻ってきました。

四国を駆け巡り衆院比例で初当選

四国を駆け巡り衆院比例で初当選妻の実家の須崎市で義母とともに6人暮らし。比例代表四国ブロックと小選挙区高知3区の重複候補として四国行脚の旅が始まりました。無数に開いた小集会は大きな威力を発揮。

また、元社会党の国会議員、県議、市議など広範な方々が「山原を」「日本共産党を」と立ち上がってくれました。96年10月20日、高知1区で山原さんの当選が決まり、数時間後、四国比例の得票が22万票を超え、7番目に私がすべり込みました。

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